第三話 「黒い壁」
※この物語はフィクションですが、南海トラフ巨大地震の最新想定(2025年3月公表)を参考に、実際に起こり得る災害医療の状況を描いています。またこの第3話には、津波の襲来など緊迫した災害描写が含まれます。
1 海が消えた
「……海が……ない。」
誰も答えなかった。
窓の外。
さっきまでそこにあった海が、異様なほど遠くまで後退している。
海底がむき出しになり、船が横倒しになっている。
道路には、人が集まり始めていた。
「何が起きてるんですか……?」
新人看護師の優菜が呟いた。
美咲は窓から目を離さなかった。
「津波……。」
「でも、津波って海が引いてから来るんですよね?」
美咲は一瞬だけ黙った。
「……必ずじゃない。」
「え?」
「津波は、海が引いてから来るとは限らないの。」
津波は、地震によって海底が大きく動き、海面そのものが大きく変動することで発生する。
最初に海が押し寄せる場合もある。
だから、
『海が引いたら逃げる』では遅い。
強い揺れを感じたら、
海を見る前に逃げなければならない。
2 「見えてからでは遅い」
美咲のスマートフォンが鳴った。
画面には、
《大津波警報》
の文字。
「警報……。」
優菜の顔から血の気が引く。
美咲は窓の外を見る。
遠くの海面に、黒い線が見えた。
最初は、ただの水平線に見えた。
しかし――
違った。
少しずつ、大きくなっている。
「……あれ、何?」
誰かが呟いた。
美咲は答えなかった。
黒い線は、横へ広がりながら、こちらへ近づいてくる。
津波は沖合では非常に速く進む。
そして浅い海に入ると速度を落としながら、波高が高くなっていく。
だから、津波を見てから走って逃げるのでは間に合わない。
気象庁も、強い揺れや長い揺れを感じた場合は、津波警報を待たずに避難を開始するよう呼びかけている。
3 病院を捨てる
「屋上へ!」
院長の声が響いた。
「歩けない患者から先に!」
看護師たちが一斉に動き始める。
点滴。
酸素ボンベ。
人工呼吸器。
担架。
車椅子。
一つひとつ、患者と一緒に運ばなければならない。
しかし、エレベーターは止まっている。
階段しかない。
「この人、人工呼吸器が外せません!」
「バッテリー確認!」
「残量62パーセント!」
「急いで!」
美咲は患者のベッドを押した。
重い。
一人では動かせない。
「誰か手を貸して!」
二人の看護師が駆け寄る。
三人でベッドを押す。
階段まで、あと十メートル。
そのときだった。
4 第一波

ゴォォォォ……。
地面の奥から、低い音が聞こえた。
「……何?」
次の瞬間。
窓ガラスが、一斉に震えた。
ドンッ!!
病院の外で、何か巨大なものが衝突した。
窓から見えた街が、一瞬で変わった。
道路を、海水が走っている。
車が浮いた。
電柱が倒れた。
建物の間を、濁った水が猛烈な勢いで流れていく。
「津波が来た!」
誰かが叫んだ。
美咲は患者のベッドを押しながら、振り返った。
窓の向こう。
そこには、さっきまで道路だった場所がなかった。
5 津波は「一度」ではない
「もう終わった……?」
優菜が呟く。
美咲は首を振った。
「まだ。」
「まだって……?」
「津波は、一回だけじゃない。」
津波は何度も繰り返し襲ってくる。
そして、最初の波が一番大きいとは限らない。
地形によって波が反射したり、複数の波が重なったりすることで、後から来た波の方が高くなることもある。
だから、第一波が過ぎたからといって、避難を終えてはいけない。
警報が解除されるまで、戻ってはいけない。
6 屋上
「あと少し!」
階段を上る。
患者の呼吸器を確認する。
「大丈夫……。」
美咲は患者の手を握った。
「もう少しだからね。」
そのとき、下の階から、凄まじい音が響いた。
バキッ。
ガシャーン!!
何かが壁にぶつかった。
建物全体が、また揺れる。
優菜が振り返った。
「……水が、上がってきてます。」
階段の下。
暗い廊下の向こうから、濁った水が、少しずつ侵入していた。
「急いで!」
美咲は叫んだ。
「屋上へ!」

7 届いた一通のメッセージ
屋上の扉が開いた。
強い風が吹きつける。
患者たちを安全な場所へ移動させる。
美咲はその場に座り込んだ。
息ができない。
手が震えている。
そのとき、スマートフォンが振動した。
一通のメッセージ。
『通信確保。近隣の避難施設も開設。』
誰が送ったのかは分からない。
それでも、情報が届いた。
美咲は、ポケットWiFiを見つめた。
小さな端末だった。
けれど、この瞬間には、とても大きな意味を持っていた。
「……つながってる。」
その言葉を聞いた優菜が、静かに頷いた。
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8 南海トラフが怖い理由
南海トラフ巨大地震が恐ろしいのは、単純に「大きな地震だから」ではない。
強い揺れ。
津波。
建物の倒壊。
火災。
停電。
断水。
通信障害。
交通網の寸断。
そして、それらが広い地域で、同時に起きる可能性がある。
2025年3月に公表された内閣府の新しい被害想定では、最大クラスの南海トラフ巨大地震について、従来の想定を更新し、地震・津波による人的・物的被害やライフラインなどの被害が改めて算定された。
つまり、
「地震が起きたら救助を待つ」
だけではなく、
救助が来るまでの時間をどう生きるか。
そこまで考えておく必要がある。
9 通信を「備える」ということ
災害時、電気や水を備えることは、もちろん重要だ。
しかし、もう一つ忘れてはいけないものがある。
通信。
家族の安否を確認する。
避難場所を知る。
道路の状況を確認する。
自治体からの情報を受け取る。
医療機関同士で情報を共有する。
それらには、通信手段が必要になる。
今回の物語に登場したのは、プレミアムチャージWiFi。
端末を買い切り、必要なときにギガをチャージして使うタイプのモバイルWiFiだ。
月額契約や返却を前提とせず、普段から持っておき、必要なときに使うという選択肢がある。
国内では4大キャリアの回線に対応するクラウドSIMを搭載した機種があり、SIMカードを別途用意せずに使えるのも特徴。
災害時の通信を「これだけで必ず確保できる」と保証するものではない。
それでも、普段から通信手段を一つ増やしておく。
その考え方自体が、災害への備えになる。
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10 そして、二度目の揺れ
屋上から街を見下ろす。
街は、水の中に沈んでいた。
遠くでサイレンが鳴っている。
誰かが泣いている。
誰かが、家族の名前を呼んでいる。
美咲は空を見上げた。
まだ終わっていない。
その瞬間――
ゴゴゴゴゴ……。
足元から、再び地鳴りが響いた。
「……また?」
美咲が立ち上がる。
次の瞬間。
屋上の床が、大きく揺れた。
患者のストレッチャーが動く。
「押さえて!」
全員が駆け寄る。
そして、海の向こう。
一度引いたはずの水が、再び、ゆっくりと動き始めていた。
美咲は、その先を見つめた。
「……まだ来る。」
(第四話へ続く)
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