傘を忘れた日

傘をさす男の後ろ姿の画像

怠惰

私は朝、傘を持たなかった。

天気予報は雨であった。

それもかなりの確率で降るらしかった。

けれども私は持たなかった。

理由を尋ねられると困る。

特別な理由などなかったからである。

ただ面倒だったのである。

人間の行動を支配しているものは、案外大きな思想ではない。

多くの場合、それは小さな面倒臭さである。

私はそのことをよく知っていた。

そして知っていながら負けるのであった。

百年に一度の雨

会社へ向かう電車の窓から空を見ると、雲は重そうであった。

近頃の雲はどこか信用がならない。

昔の雲は空に浮いていた。

今の雲は空そのものになろうとしている。

私は時々そんな気がする。

もっとも、そう考えるのは私が年を取ったせいかもしれない。

若い社員などは平気な顔で言う。

「最近また線状降水帯が増えましたね」

まるで季節の挨拶でもするように。

私はその言葉を聞くたびに少し不思議になる。

線状降水帯。

記録的豪雨。

観測史上最大。

百年に一度。

その百年に一度というやつが、近頃は随分忙しい。

毎年のように顔を見せる。

百年に一度も安売りされたものである。

雨宿り

屋根の下で雨宿りする人の画像

午後になると窓の外が暗くなった。

照明の光が妙に白かった。

遠くで雷が鳴った。

誰かが空を見上げた。

しかし仕事は続いた。

人間というものは、世界が終わる直前まで会議をする生き物かもしれない。

夕方。

私は会社を出た。

そして立ち止まった。

雨が降っていた。

いや、降っていたという表現は少し違う。

空が崩れていた。

水が落ちていた。

道路も建物も信号機も、みな同じ灰色に沈んでいた。

私は駅まで歩こうとした。

だが三歩で諦めた。

濡れるとか濡れないとかいう段階ではなかった。

水の中へ出ていくような気分だった。

私は軒先に立った。

そこには同じような人間が何人もいた。

皆、空を見ていた。

誰も怒っていなかった。

誰も騒いでいなかった。

しかし少し困っていた。

そしてその困り方が、どこか私と似ていた。

雨はしばらく止まなかった。

私は退屈した。

雨のニュース

スマートフォンを眺めた。

ニュースが流れていた。

豪雨。

冠水。

運転見合わせ。

避難情報。

近頃のニュースは雨の話ばかりである。

昔は台風が来ると大騒ぎだった。

今は普通の雨が大騒ぎを連れて来る。

世界の方が変わったのか。

それとも私が遅れているのか。

その区別は案外難しい。

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古い傘

帰宅したのは夜だった。

濡れた靴を脱ぎながら私は思った。

明日も雨らしい。

私は押し入れを開けた。

奥から折りたたみ傘が出てきた。

古い傘であった。

重かった。

骨も少し曲がっていた。

私はそれを眺めた。

そして何となく閉じた。

新しい傘で、世界が変わった

傘をさし去っていく男の画像

翌週。

私は新しい傘を買った。

必要に迫られたというより、

ようやく観念したのである。

世界は変わった。

それを認めるしかなかった。

届いた傘は驚くほど軽かった。

手に持っている気がしなかった。

私は少し拍子抜けした。

今まで傘とは重いものだと思っていた。

重いから持たない。

持たないから濡れる。

濡れるから後悔する。

私はその妙な循環の中にいたのである。

数日後。

また雨が降った。

私は傘を開いた。

風が吹いた。

しかし傘は静かだった。

私は歩いた。

濡れなかった。

ただそれだけのことであった。

だが不思議なことに、

その日の私は少し機嫌が良かった。

人生には、

持っているだけで安心するものがある。

そして安心というものは、

案外軽いところに宿るらしい。

雨は相変わらず激しく降っていた。

けれども私はもう空を恨まなかった。

世界は変わった。

しかし人間は、

少しずつ変わればそれで十分なのである。

私は傘を肩に担ぎながら歩いた。

久しぶりに、

雨の日が嫌いではなかった。

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