南海トラフ巨大地震 ― 白い非常灯の下で(看護師・美咲)
※この物語はフィクションですが、南海トラフ巨大地震の最新想定(2025年)に基づき、実際に起こりうる災害医療の状況を描いています。
1 午後2時14分の揺れ
午後の病棟は、いつも通りの静けさに包まれていた。
看護師・美咲は、点滴交換のために患者のベッド脇に立っていた。 窓から差し込む光は柔らかく、遠くで子どもの泣き声が聞こえる。
「今日は天気いいねえ」 患者の女性が笑った。
美咲も笑い返した。
その瞬間だった。
床が跳ね上がり、壁が軋み、天井の照明が激しく揺れた。
「地震です!」 誰かの叫びが響くより早く、停電。
病院全体が、深い闇に沈んだ。
非常灯だけが、ぼんやりと廊下を照らしていた。
2 止まる機械、鳴り続けるナースコール
「人工呼吸器が止まりかけてる!」
「ナースコール全部鳴ってる!」
「エレベーター停止! 階段で搬送するしかない!」
暗闇の中、警告音が重なり合い、病院は一瞬で戦場になった。
美咲はヘッドライトをつけ、人工呼吸器の再接続に走った。
患者の胸が上下していない。
「大丈夫、大丈夫だからね」 声をかけながら、手は震えていた。
停電した病院は、想像以上に静かで、そして恐ろしい。
機械の音が消えるということは、 “命を支える音が消える”ということだった。

3 水が止まる、情報が途絶える
「水道、止まってます!」
「スマホ、圏外です!」
「救急車が外で渋滞してる!」
次々と飛び込んでくる報告。
美咲はナースステーションに戻り、深呼吸した。
手洗いができない。 患者の処置が続く。 感染症のリスクが跳ね上がる。
そして、ふと気づいた。 自分は朝から何も食べていない。
4 安心米のパッケージ
「美咲さん、これ……」 同僚の沙耶が、ロッカーの奥から小さな白いパッケージを取り出した。
安心米。
病院の備蓄棚に、いつの間にか補充されていた非常食。
「水でも戻せるから、患者さんにも使えるって、事務の人が言ってた」 沙耶は言った。
美咲は受け取ったパッケージを見つめた。
ナースコールは鳴り続けている。
でも、倒れたら誰も助けられない。
「……少しだけ食べるね」
非常用の給水タンクから少しだけ水を注ぐ。
ふわりと、米のやさしい香りが立ち上がった。
「こんなときに、食べ物の匂いって……」 自分でも驚くほど、涙が出そうになった。
その一口が、彼女をもう数時間、前へ進ませる力になった。
5 《緊急津波警報》
その直後だった。
美咲のスマホが突然、けたたましい音を鳴らした。
画面には赤い文字が点滅している。
《緊急津波警報》 最短2分で到達の可能性
美咲の心臓が止まりそうになった。 病院は海から数キロ。 避難できない患者が何十人もいる。
「……嘘でしょ……」
廊下の奥で、誰かが泣き叫んだ。
別の看護師が「上階へ! 上階へ!」と叫んでいる。
美咲はヘッドライトを握りしめた。 安心米の温もりが、まだ手に残っている。

6 地鳴り
そのときだった。
病院の床が、低く、重く、うなるように揺れた。 地鳴り。 遠くで何か巨大なものが崩れる音がした。
美咲は息を呑んだ。 「来る……」
次の瞬間、病院全体が再び大きく揺れた。


