第二話:最初の灰
1. 6月某日 午前9時12分 ― 東京・新宿
朝倉悠はリビングの窓を開けた。
梅雨の湿った空気が流れ込む。
テーブルには飲みかけのコーヒー。
テレビでは朝の情報番組。
娘は学校へ行った。
息子は保育園。
妻はパート先へ向かっている。
いつもと変わらない平日の朝だった。
窓の外を見ると、空が少し白っぽい。
(天気悪いな……)
その程度にしか思わなかった。
スマホが震える。
《富士山周辺で噴煙上昇の可能性。気象庁が会見へ》
悠は苦笑した。
「また富士山か……」
何度目だろう。
富士山の前兆ニュースは。
結局、何も起きない。
そう思って通知を閉じた。
その時だった。
パサ……
窓枠に何かが落ちる音。
パサ……
もう一度。
悠は指先でその粒を拾った。
白く、ざらついている。
砂ではない。
雪でもない。
灰だった。
胸の奥が、わずかにざわついた。

9時30分 ― 富士山火山観測センター
三雲剛はモニターを見つめていた。
無数の波形が画面を埋め尽くしている。
「……始まったな」
助手が声を震わせた。
「先生、本当に噴火するんですか?」
三雲は首を振った。
「違う。」
数秒の沈黙。
そして低く言った。
「もう噴火している。」
助手の顔から血の気が引いた。
「風向きは?」
「東だ。」
その一言で部屋の空気が凍った。
東。
首都圏方向だった。
午前9時43分 ― 東京・新宿
悠のスマホが鳴った。
妻からのメッセージ。
『ねえ、ニュース見た?』
『富士山、本当に危ないみたい』
続いてもう一通。
『子どもたち、大丈夫かな』
その文章を見た瞬間、
悠の胸が重くなった。
娘の学校。
息子の保育園。
いつもなら数分で迎えに行ける。
だが、もし何か起きたら?
そんな考えが頭をよぎる。
慌てて学校のホームページを開く。
アクセス集中。
表示されない。
保育園も同じだった。
初めて不安が現実味を帯び始めた。
午前10時02分 ― テレビ速報
テレビ画面に富士山のライブ映像が映る。
山頂付近から白い煙が上がっていた。
司会者が言う。
「現在、専門家の見解を待っています――」
その瞬間だった。
ドンッッッ!!!
画面が大きく揺れた。

巨大な黒い噴煙が空へ突き上がる。
アナウンサーが言葉を失う。
「……っ!」
数秒後、
震える声が響いた。
「いま、富士山が噴火しました!」
「噴煙が急速に上昇しています!」
「これは……大規模な噴火の可能性があります!」
噴煙柱は空へ伸び続けた。
画面の上端を超える。
「噴煙高度、推定1万メートル!」
「風向きは東です!」
「首都圏方向です!」
悠は立ち上がった。
テレビの向こうで起きている出来事なのに、
なぜか自分の家のすぐ近くで起きているように感じた。
午前10時18分 ― 通信会社本社
榊原慧は基地局データを見ていた。
異常値が増えている。
まだ灰はほとんど積もっていない。
それでも通信品質は少しずつ悪化していた。
隣の同僚が笑う。
「大げさだな。」
「たかが灰だろ?」
榊原はモニターから目を離さなかった。
「違う。」
そして静かに言う。
「灰は雪じゃない。」
「溶けない。」
「消えない。」
「積もり続ける。」
その言葉に、
誰も返事ができなかった。
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午前10時35分 ― 東京の街
悠は外へ出た。
違和感はすぐに分かった。
車のフロントガラス。
街路樹の葉。
コンビニの看板。
すべてに白い粉がうっすら積もっている。
空気もどこか重い。
空を見上げる。
青空が消え始めていた。
スマホが鳴る。
緊急速報。
《富士山噴火》
《首都圏で降灰を観測》
《不要不急の外出を控えてください》
周囲がざわめく。
人々がスマホを見る。
写真を撮る。
笑っている人もいる。
だが悠は笑えなかった。
娘と息子の顔が浮かんだからだ。
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午前11時00分 ― 灰の雨

空は完全に色を失っていた。
灰色の幕が東京を覆う。
テレビでは三雲剛が緊急出演していた。
「これは灰の雨です。」
「雪ではありません。」
「溶けません。」
「積もれば都市機能は停止します。」
誰も話さなくなった。
窓の外を見つめる。
灰が降っている。
東京に。
現実に。
朝までは、
ただのニュースだった。
だが今は違う。
学校にいる娘。
保育園にいる息子。
離れた場所にいる妻。
守りたい人たちがいる。
だからこそ分かる。
これは遠い山の噴火ではない。
自分たちの生活そのものが、
静かに飲み込まれ始めているのだと。
そして誰もまだ知らない。
本当の地獄は、
これから始まるということを。


